温泉お風呂
自宅でもお風呂に入れるのですが、ガス代が高く、また一人分のお湯を張るのはもったいないので、シャワーだけで済ませられる夏場以外、私はほぼ毎日近くの温泉に行っています。
神奈川にいたころは、山登りでどこかへ行ったときに入るか、たまにご褒美的にスーパー銭湯に行くのみだったのが、今は温泉が日常というのはずいぶんな違いです。
三島町には気軽に日帰り入浴できる温泉施設が数件あり、町民割引もあるのでありがたいです。平日は近所の町内温泉へ、週末は買い物などのついでに、もしくはごくたまにそれ目的でわざわざ近隣市町村の温泉へ行っています。
近隣市町村にも様々な温泉があり、泉質もそれぞれ違うので、飽きることがありません。
町内の温泉には、観光客もいるけれど、地元の方も多く、この時間帯に行くとたいていこの人がいるなという感じで、ここに通っている人の中には、ここが一つの生活空間として確立していて、ここでおしゃべりしながら一日を締める方、ここが一種の憩いの場的な人もいるのだろうなと想像します。
私自身は特にここで誰かと話すということはなく、挨拶程度しかしていませんが、それでも通い続けて、だいぶ常連さんのお顔が分かるようになり、顔見知りみたいな人もできてきました。今さらお名前も聞けないのでどこの誰か名前はほとんどわからないけれど、ここで必ず会う三島のおばちゃんやおばあちゃんたち。
最近この習慣も少し進化/深化して、しばらく時間帯がずれて会わなかった人に久しぶりに会え、変わらず元気そうだなと確認できると、なんだかうれしい気持ちになるようになりました。そして、一人暮らしだから眠る前に挨拶する人はいないのですが、温泉に行けば必ず最後にみんな「おやすみなさい」を言い合います。これは何だがアットホームな気持ちになるなと感じるようになりました。
自宅のお風呂で気兼ねせずに長湯できるのが理想ではあるけれど、でもこうして毎晩温泉に浸かれるのは贅沢であり、風邪一つ引かず冬を乗り越えられたのは、ぽかぽかと身体の芯から温まれる温泉のおかげとも思っています。そして世間とちょっとした接点が持て、生活空間が少し広がる場でもあるので、私にとって大切な生活習慣だなと思っています。
移住者インタビューその3
岩渕良太さん(34歳)
2009年、24歳のときに三島町へ移住。一緒に来たパートナーとこちらで結婚し、現在はお子さまも2人生まれ、ご家族4人で大登地区に暮しています。
佐久間建設の森林事業部に勤めながら、NPO法人会津三島エネルギー研究会の理事長としても活動されています。
三島町に移住したいきさつ
2009年の4月23日にこちらへ来たので、丸10年経つところです。その翌日に「栃の王国」というイベント(詳しくは森のしごと舎ブログhttp://morinoshigoto.blogspot.com/)があり、みなさんと顔見知りになったその日を今でもよく覚えています。
20歳の頃にカナダの農村部をホームステイしながら旅し、自分たちでできることは自分たちでするという暮らしに強く感銘を受けました。自分も日本でそういう暮らしをしたいと思い、帰国してからの2~3年間働きながら移住地を探しました。カナダで山スキーにはまり、雪があるところという以外は特に決まっておらず、探す中でだんだんと福島県、会津地域、三島町と絞られてきました。
森の校舎カタクリに滞在しながら、下郷町にある大内宿の茅の葺き替えを行う「田舎で働きたい」という1週間のプログラムに参加しました。プログラム終了後もそのまま三島町に残り、役場の方に紹介してもらった仮住まいに滞在しながら、仕事と家を探しました。当時は移住者への制度などもなく、空き家もほとんど把握されていない状況だったので時間がかかりましたが、地域の方に「この人、この町で仕事を探しているんだ」と間に入ってもらい、最終的に佐久間建設工業に決まりました。まさしく自分たちは飛び込みだったと思います。
当初は農業部門での採用でしたが、ちょうど自分が来た年に、佐久間建設に森林事業部を立ち上げるという話があり、2年くらいは両方をかけ持ちながら、少しずつ森林事業部にシフトしていきました。
お仕事について
ものづくりは全くの素人でしたが、作ることは好きだったのだとこっちに来てわかったように思います。木を伐り、加工し、製品にする。この10年で技術的にずいぶん進歩もしましたが、それ以上に思考の面で大きく影響を受けました。
今までは焼き物の器を見ても何も思わなかったが、今はどこで誰が作ったのか知りたくなる。そういう思考の変化をもたらした10年間でした。農産物はどこで誰が作ったのかというのが見えやすく、産直というのが当たり前になりつつありますが、木工品に関してはまだまだ現場と使い手がかけ離れていて見えにくいように思います。ここで木の産直を目指しながら、これがどこの木で、だれが作ったものなのかというストーリーを伝えていくのが自分の使命だと思っています。ものづくりはどこでもできるけれど、ここにいると木を取り巻く環境、すべての過程に関わることができ、それがいいと思っています。
住まいについて
この家は三島に来て培った知識と技術と経験が注ぎ込まれている作品、10年分の集大成と呼べるかもしれないです。自分で言うのも何ですが、本当にいい家で、10年経ってようやくここまでできるようになったなと思っています。簡単にはここまではできないと思います。改修は段階的に行っていて、今第3次が終わったところ。この先第5次くらいまでは続きそうです。
来た当初は桑原地区に家を借りていましたが、こちらに来て5年目に空き家を取得しました。町の空き家改修補助金の第一号だったんじゃないかな。屋根や水回りなど業者にお願いしたところもあるけれど、自分たちで手をかけながら、少しずつ住みやすい家にしています。「暖かくて、快適で、オリジナルな家」がテーマで、薪ストーブも入っており、室内は冬でも23℃はあります。
子育てについて
子どもにとって今の環境がいいのか悪いのか、それは本人に聞いてみるしかわからないけれど、子どもにとっていいと思う環境を整えています。仕事は定時に終わり、休みもはっきりしているので、なるべく多くの時間を子どもと過ごせるようにしています。
自分はゲームをするのではなく、外で遊びながら育ちました。両親もアウトドアが好きで、そういった外で遊んだ記憶が自分の中に残っていて、自分の子どもたちにもそういう経験をさせたいと思っています。薪割りを見せたり、スキーをしたり、どこかへ連れていくなど特別なことはしていないけれど、子どもが実際に見て経験するということを大切にしています。将来子どもがそれをするかどうかは関係なく、実際に見て経験したことは必ずどこかに残っていくものだと思います。そういう想いは仕事にもNPO法人会津みしま自然エネルギー研究会(HP:https://www.amre.jp/ ブログ:http://aizumsek.blogspot.com/)につながっています。
*この活動についてはまたじっくりお話を聞きたいなと思っています。
三島町のよいところ
自然の景観、四季の移り変わりというのは身体にいいだけでなく、心のゆとりにもつながります。そして、ここには人の豊かさがあります。三島町に集まる人はふるいにかけられて残ったコアな人々。そういった人たちと話ができるのは何よりです。10年前にはわからなかった話も今では分かるようになりました。仕事で関わる人、見学会などに来る人、関わった人たちからものの考え方を学び、今の自分があると思っています。
それでも三島町には固執していません。ここは居心地がいいけれど、またカナダや他にいいところがあれば、すぐ行けるような身軽さは持ち合わせていたいなと思っています。
インタビューを終えて
自分より年上の人だろうと思っていたけれど、岩渕さんと私は同級生と判明。岩渕さんが三島町で移住者として丁寧に積み重ねてきた10年は確かな重みをもって私の前に現れました。比べるものではないとわかっていても、ここですでに10年を過ごし、しっかりと根を張って暮らす岩渕さんを前に、色々と考えさせられる時間ともなりました。同じ三島町にいながら全く違う場所に立って景色を見ているように感じました。
岩渕さんの新たな10年は、そして私の始まったばかりの10年はこの先どのように積み重なり広がっていくのか、このインタビューを経て10年という軸が自分の中に芽生えたように思います。未知の世界だな思うと同時にわくわく楽しみでもあります。
春待つ日々
今朝は久しぶりに消雪の音(消雪のために道路内に設置されているパイプから水が出てくる音)が聞こえていて、ドアを開ける雪がふさふさと積もっていました!
常より一ヶ月も早くに雪がなくなったとよく耳にしますが、2月半ば過ぎから、雪らしい雪は降らず、そもそも少なかった積雪も日に日に解け、もう雪の季節は終わりと信じて疑わないくらいに、町からは雪が消え、地面が見え、ふきのとうも顔を出し、自転車にも乗れるようになり、我が家は春夏仕様に鉢植えなどを整えたところだったので、不意打ちでした。
でも、あっという間に消えつつある雪に名残惜しさがあったので、今朝は久々の雪にはしゃぎました。
雪化粧した木々ややっぱり美しく、うっとりです。
春とはっきり呼べるようになるのはいつからなでしょう。
一昨日には花を咲かせたふきのとうも見かけましたが、神奈川では2月半ばに花盛りを迎えていた福寿草も、我が家のはようやく芽が目立つようになってきたところ。
行きつ戻りつしながらも確実に季節は巡り、春だぁと実感できる日も来るのでしょう。
そんな季節の移り変わりを日々しっかり味わいたいなぁと思います。
間方地区のこと
三島町の中心地から三谷街道という川沿いの道を山奥へ進んで行くと大谷地区、浅岐地区と4Kmずつ間隔をあけて集落があり、その最奥部に間方地区があります。標高も高くなり、三島の中で最も雪深い地域です。私はこの街道沿いの集落が好きなのですが、最近は先日のツアーも含めよく間方にあそびに行かせてもらっています。
三島町には暮らしの知恵とか伝統が色々と残っていますが、特に間方地区にはそういったものが色濃く残っているように感じています。
「あさつきが出てるぞ。」、「ここは秋になるとまつたけが出るんだな~。」、「この先にコゴミがたくさん出る場所があるんだ」、「そこを歩くと雪崩になるから、そっちに行くな」、「春になって木が水を吸い上げているから、木の周りが解けているんだ」などなど、そういったお話を聞きながら山を歩けるのは楽しい時間です。
ここの人たちにとっては子どもの頃から暮らしの中で身近に触れ、育まれてきたものなのでしょうが、私はこういうものとはほとんど無縁に育ってきて、大人になってから興味を持ち求めるようになったので、こういう話を聞いたり教えてもらえる時間がありがたくてなりません。すでに失われた/失われつつものもあるのでしょうが、「間に合ってよかった」と折に触れ思うことがあります。
またここの人たちはあそび方も豊富に知っていてます。山奥ゆえ与えられる娯楽はほとんどなく、川でも雪でも火でも、あそびなんて感覚はなくとも、みんな自分たちであそびを考えてきたのでしょう。おじちゃんたちは本当にいろんなあそび方、楽しみ方を知っていて、先日のツアーでもその一部を教えていただきました。
そしてこの日、かたゆきわたりというのを体験しました。
通常ならかんじきを履かないとずぼずぼ股の下まで埋まってしまう雪の上を、条件がそろうと沈むことなく歩くことができるのです。春が近づいて気温が上がってくるとできる遊び。日中雪が溶け、その溶けたものが夜の冷え込みで凍ることで、翌朝早い時間帯に雪の上そのまま歩けるのです。通常だと3月にならないとできないそうですが、今年はそれがずいぶん早くできました。
「昔はよくかたゆきわたりをして遊んだんだ。」とおばあちゃんやおじちゃんたちが話していたかたゆきわたり。それが宮沢賢治の『雪渡り』に出てくるあそびと結びつきいつかしてみたいなと思っていたのですが、それを今回体験することができとても感慨深かったです。
切った木を運び出すのに使うというスノーモービル。これを持っている人が結構いることも驚いたことの一つで、まさかスノーモービルにも乗せてもらえるなんて、来る前は思いもよりませんでした。
きっと、まだまだ私の知らないことは三島にたくさんあるのでしょうが、少しずつ発見し、体験していきたいなと思っています。
田舎暮らし体験ツアーin間方
先週末は間方地区で行われた1泊2日の田舎暮らし体験ツアー【かんじき作り・雪上トレッキング】に参加してきました。
このツアーについて、また間方地区については色々書いてみたいなと思うことがあるので、今回はその第一弾として、今後少しずつ書いていけたらと思います。
平成24年から開催されているこのツアーは、三島町の生活・文化を楽しみ、田舎の“ほんとうの豊かさ”に触れてもらう企画(詳しくはこちら参照:三島町観光協会HP)で、今回の参加者でちょうど500名を数えたと聞きました。
まず、このツアー参加者のリピーター率の高さに驚きました。参加者の大半がすでに顔見知り。間方の人たちに会うために、そしてお互いと会うためにみなさん参加されているようでした。
三島町のファンがこんなにもいること、そしてこんなにもディープな三島町ファンがいることに、びっくりしたのと同時に、今回私も一緒に過ごしてみてそれもわかるなと納得。
このツアーの魅力、楽しさはつまるところ間方の方のおもてなしの心にあるのかなと思います。例えば、かんじきで歩いていくと、山の中に雪を掘って作られた手製のテーブルとイスが用意されていたときの感動。飲み物やお菓子もあり、この日はラッキーにもお天気にも恵まれ、なんて素敵な休憩タイムだったことでしょう。
そして、お母さんたちの手作りごはんも素晴らしいのです。間方で採れる山菜料理や会津の郷土料理は、私はこっちに来るまではほとんど食べたことのなかったものでしたが、参加者の中にも「毎回これが楽しみで」と山菜を喜んでいる方がたくさんいました。
初日終了後のお見送りタイムは雪灯ろうでの演出。
毎年恒例のようですが、それでも参加者のみなさんは歓声を上げていました。特にこの日は星もよく見えて、美しい夜のひと時となりました。
参加者の到着前に道路わきの雪を掘り、キャンドルを仕込み、帰り時間に合わせて火を灯す。
こういった粋な計らいや心づかいが、参加者みなさんの心に届き、参加者の中にはお土産を持ってきたり、コーヒーをふるまったりする人もいて。こういう心通う交流が毎回あり、みなさんリピーターとして通っているのだなと感じました。
間方の方も、参加者の方もみなさん優しくて、面白くて、素敵で、私もまたリピートしたいなと思う時間を過ごさせていただきました。
移住者インタビューその2
佐藤美智子さん(72歳)
只見川の川霧に魅せられ、59歳のときに三島町へ移住。
三島町13年目の現在は趣味の写真を楽しみながら、愛猫2匹との3人暮らしを満喫されています。
—三島町に移住したきっかけは?
東京都内や埼玉県川口市などに暮らしていましたが、2つの流れがあり三島町へと移住しました。まず一つ目が仕事の減少。トレーサーという上下水道などの設計図を手描きで清書する仕事をずっとしていましたが、時代の流れとともにコンピュータが取って代わるようになり、仕事が減ってきていました。
二つ目が趣味の写真です。45歳頃から会津に写真を撮りに来るようになり、さらに奥会津写真ツアー(只見川電源流域振興協議会主催)が始まり、通算10回ほど参加しました。その間に三島町の写真クラブの人たちと親しくなりました。
その頃、宮下の集会所を解体する話が持ち上がっており、空き家を探していた私にそこに住まないかと冗談半分で声をかけられました。36畳もある集会所に住むなんて、はじめは考えられませんでしたが、見てみるとまだまだ使える建物で気に入りました。そこで、写真仲間が宮下の部落委員会に私が住むことを掛け合ってくれ、満場一致で受け入れてもらえることとなりました。
そういうタイミングが重なり三島町へと移住し、今も集会所を借りて住んでいます。
―どのような写真を撮っているのですか?
基本的には自然風景を撮ります。
私は何といっても只見川の川霧に魅せられて三島町にやってきました。毎回違う表情を見せてくれ、飽きることがありません。只見線も近年有名になりましたが、川霧の風景も見事です。
川霧を堪能しながらゆっくりコーヒーでも飲める場所があったらなと思うのですが、今のところはつるのIORIカフェくらいでしょうか。
毎年大林のカタクリの時期も楽しみです。子どもの頃に山で見た花なので、郷愁を覚えます。ツアーでは大林のカタクリを見ることはなかったので、移住して初めてここの存在を知り訪れたときは、感動しました。
自分の地区以外にも各集落の行事や町の企画に出向いて写真を撮っています。そうすることで、色々な方とも知り合え、楽しいです。
あとは最近、昆虫撮影にも夢中です。家の周りにたくさんの昆虫が飛んできます。小さな命、ちっちゃいけれど一生懸命生きている姿に胸を打たれます。これからの季節が楽しみです。
—三島に来てよかったこと
自然の環境に身を置いていることですね。
埼玉県の川口市にいたときは、一人旅でそういったところを訪ねていました。白川郷にも結構足繁く通っていましたが、そういう環境がやはり好きなのですね。
今そういう環境の真っただ中にいることが幸せです。只見線の線路脇に住み、窓の外をのぞくと、緑が豊かで春は菜の花畑が広がっていて、桐の花も見えます。本当にいい環境です。
苦労したことも嫌な思いをしたことも全くなく、楽しいことばかりでした。もともとは秋田県出身なので、雪への不安は全くありませんでした。
また、ここに来て何人かの親しい友人ができたのもうれしいことの一つです。
三島町の魅力の一つでもあるものづくりも、こちらに来てから興味を持ちやるようになりました。テーブル、お盆、ペンケースなどの木工は森のしごと舎で習いながら自分で作りました。
三島町の編み組のバックや笊なんかもものづくり教室に通って習いました。ちょうど、ヒロロのバックが仕上がり、3月の全国編み組工芸品展に応募するところです。
—移住を考えている方へのメッセージ
ここは自然が本当に素晴らしく、四季折々の移り変わりを楽しめますね。奥会津は山が深く、そこに悠然と流れる只見川の風景はまさに絶景です。
ぜひ、何度か足を運んで様子をみてから決めてください。特に冬の雪の時期は来た方がいいです。
よく町の行事などでお見かけはしていたけれど、ゆっくりお話をするのは今回が初めてでした。川霧のこと、昆虫のこと、猫のことなどをお話しする姿はキラキラとしていて、自然を愛で、季節の移り変わりを楽しみ、小さな命に思いを馳せる美智子さんの暮らしは、豊かで喜びにあふれているなぁと感じました。お顔も広く、近隣市町村にもフットワーク軽く出かけているようで色々な情報をお持ちで、私の興味もまた色々と刺激される時間となりました。
またたびの笊
三島町にはものづくりの文化が残っています。
暮らしで使うものを手作りするのは、私がこれからしていきたいと思っていること。
三島町に来た理由の一つも、ここにそういう土壌があるからでした。
雪に閉ざされる冬の時期は、ものづくりの季節。
この冬、町が開催する夜のものづくり教室に参加し、またたびの米研ぎ笊を作りました。
週1回のペースで計8回、伝統工芸士の先生から一から教えてもらいます。
山から切ってこられた植物のマタタビをヒゴと呼ばれる材にし、編んで笊にしていく。
ヒゴづくりが上手にできなかったから、編むときにヒゴがバキバキ折れたり、裂けたりとなかなか思うようにできませんが、その都度先生に助けてもらいながら、直してもらいながら作り進めます。
普段はなかなか会うことのない他の参加者や先生たちと、おしゃべりしながらも夢中に取り組む時間、だんだんと笊の形になっていく過程は何とも楽しく、2時間はあっという間に過ぎてゆきます。
週に一度のこの日が毎回待ち遠しくて、終わってしまったのは少し寂しいですが、今は使う楽しみがあります。
プロが作った笊はお米が詰まることはないそうですが、私が作ったのは目が大きいところがあり、お米が詰まってしまいます。
でも、それも手作りならではということで、日々愛着がわいてきます。
自分で作ってみて、いかにみなさんが作る笊がすごいかも今回よくわかりました。
ヒゴづくりが大事ということがよーくわかったので、それを肝に銘じてまた来冬、別の笊づくりにチャレンジしたいです。