わらび餅作り
先日、本わらび粉でわらび餅を作る機会に恵まれました。
わらび粉は、わらびの根から取り出したデンプンを乾燥して作られますが、手間ひまがかかるうえに収量が少ないため、本わらび粉100%のわらび餅は希少品であり、高級品。私たちが普段食べるからわらび餅は芋類などのデンプンが混ぜ合わされていると聞きます。
山菜の宝庫奥会津では、春から初夏にかけてたくさんのわらびが採れ、人によっては山からわらびを移植し、わらび畑を持っている人もいるくらいです。私はわらび餅が好物の一つで、初めてわらび畑を目にしたときから、このわらびで本わらび餅を作りたいものだとふつふつ想い巡らせていたのですが、今回ようやくその機会到来です。
あいにく、今回はわらびの根を掘るところから参戦することができなかったのですが、地元の方と友人が一週間前に根を掘って抽出したわらび粉100%を使用。
この粉に水と砂糖を加え、混ぜながら火にかけると、次第に塊ができ、とろみがつき出します。さらに混ぜ続けると、固まってきて、透明度も増し、いよいよお餅になります。
ちょうどいい硬さになったら、きな粉を広げたバットの上に乗せて出来上がり。その美味しさといったら、風味豊かでぷるぷる、ほっぺたが落ちそうにとろける美味しさで、感動ものでした。
調理自体はいたってシンプルな材料と手順であっという間。やはり、粉を抽出するのが一大作業なのだと知りました。今回は大事なその部分ができず残念でしたが、ここに暮していると、本物に触れ、味わう機会が身近にあることが改めてありがたく、幸せだなと感じた体験でした。
本物の中には手間ひまかかり今はやらなくなってしまったことも多くありますが、楽しみながらできることは、これからも色々学ばせてもらいながら、自分のものにしていきたいなと思います。
果樹の剪定
すっかり寒くなり、朝は家のなかも5℃以下になる日が増えてきましたが、山の上は雪がかぶっても、まだ里の方には雪は積もりません。
晴れていると思ったら、灰色雲が出てきて雨が降り出し、しばらくすると再び日が差してぽかぽか陽気とお天気がくるくる変わりやすい日々。
天気の合間を見て、ずっと気を揉んでいたキウイと梅の剪定をようやく終えました。
ここらへんは雪が多いため、剪定しないと雪の重みでキウイ棚はみんなつぶれてしまうそうです。
うちの棚もずいぶん傾いていますが、今のところは、何とか持ちこたえており、今年それなりに実をつけてくれました。
来年はもっと大きな実をたくさん採れるようにと張り切って作業。
雪が下に落ちるようばんばん剪定するよう指導されましたが、なにぶん剪定なんてほとんど経験がないので、最初はおっかなびっくり。
それでもやっていると「ここは絡みすぎている」「この枝は残そう」など、何となくわかるような気にもになってきて…さて、これが吉と出るか凶と出るか、来年が楽しみです。
「桜切るバカ、梅切らぬバカ」と言われるそうで、梅の木もバッサリ切っていいと言われましたが、あまりに高く生長していて、私の手には負えず…
庭から梅の実を収穫して梅酒・梅シロップを作れるなんて、なんて素敵なのでしょうと憧れますが、今年は途中で断念となりそうです。
そして、切った枝をうまく片付けるまでの余力がないのが現状ですが、それでもこうして自分でも果樹の剪定ができるとわかると、ふつふつと自信に。
次は最後まで剪定できるように、枝をそれなりに片付けられるように(できれば薪になるとなおよし)なりたいと思うと、ここでの暮らしは次々にやりたいこと・できるようになりたいことが出てきて、飽きることがなかく、面白いなぁと改めて思います。
晩秋は忙しい
昨日は朝びっしりと霜が降り、寒く一段と美しい朝でした。
陽が昇り暖かくなるのも遅く、夕方も4時半すぎるとすとんと暗くなってしまうため、最近は仕事前やあとに畑や外作業をする時間はなく、休みの日が勝負。
里芋、豆、大根、白菜などの収穫、これらがちゃんと冬越しできるよう保存と保存食作り、果樹の収穫と剪定、来シーズン用の種まきなどなど。恵みの秋は、こちらの準備が整う前にどんどん恵みを分けてくださるので、段取りがまだうまくできない菜園1年生は追いつかずてんてこ舞いです。
そして、今年は教えてもらいながら初めて雪囲いもしました。雪囲いとは、屋根から落ちる雪が窓ガラスなどを割らないよう建物を守るためにする囲いのことです。
幸い雪の始末の負担や心配があまりない家なので、あとは、大きいおうちの中でいかに暖かく過ごせるか、これから試行錯誤です。
本格的に雪が降る前に、やることはずらりとリストになっているけれど、山も歩きたいしとやりたいこともいっぱい。天気予報とにらめっこしながら、お天気のいい日は葛藤です。
冬至まで1カ月ほど。日に日に寒く、明るい時間も短くなるので、この時期はいつも気持ちが急きますが、今年は畑も始めたのでなおさら。
お天気のいい日が長く続きますようにと願うばかりです。
美女峠
今週からずいぶん冷え込み、日中もなかなか気温が上がらなくなってきました。
冬がもうすぐそこまで来ているという気配が肌身にひしひしと感じられ、10日には、町内から見える三坂山が初雪化粧。
先日ハイキングに行った美女峠も雪をかぶったことでしょう。
この日は、銀山街道を三島町間方地区から昭和村に抜ける途中にある美女峠まで、往復約8キロほどを歩きました。江戸時代から続く銀山街道は、会津若松市大町と只見町小林を結んでおり、全長約72キロあります。
軽井沢銀山で銀が採れていた頃は、会津藩にとって銀を運ぶための重要な街道だったようです。
県道ではあるものの、車が通行することはできず、現在は歩く県道として整備されています。
荷馬車が通行していたということで、道幅も広く、美女峠までは終始緩やかな道となります。
この日は新米の収穫祭も兼ねていたので、途中の清水でお水を汲んで峠で芋煮会をしました。
地元の方、移住者、町内外の方々みんなで、自然の美味しい恵みと紅葉と秋の陽気を味わいました。
雪が本格的に降るまであと少し、山歩きを楽しめたらと思います。
沼田街道トレッキング
10月31日、「江戸時代の古道を巡るトレッキング実行委員会」が主催するトレッキングツアーに参加しました。すっきりと晴れ渡った青空のもと、今が盛りと輝く紅葉を愛で、友人知人とおしゃべりしながら、のんびり歩いてきました。
沼田街道は、会津若松市から尾瀬沼を経て群馬県の沼田市へと至る道のことで、その昔は会津(福島県)と上州(群馬県)を結ぶ交易路だったそうです(群馬県側からは会津街道と呼ばれるようです)。
この日は、町内を通る街道を滝谷駅から宮下駅まで、約11キロほど歩いてきました。途中には、風穴や厳谷(がんこく)城・丸山城という城跡などもあり、見どころも満載です。
城跡へのアプローチなど険しい道や車道もありますが、古道はきれいに整備されており、落ち葉の堆積でふかふかと歩きやすく、気持ちのいい道です。
随所で、地元ガイドの方が解説をしてくださるので、今まで知らなかった町の歴史や当時の往来の様子に想いを馳せることができ、街道歩きもより深みが増します。
存在は知っていましたが、いつも目にしている山の中や道路脇に、実は街道が巡らされていることに感動。
同じ道でも、車で通り過ぎるのと自分の足で歩くのとでは、見える景色も全く違い、このように歩く機会がありよかったです。
暮らしのこと
すっかり暮らしの様子について掲載するのが止まっていました。
6月に町内に空き家を借り、住まいを整えつつ、畑に種を蒔き、苗を植え、夏の間夢中になって畑作業をし、気が付けばもう11月。
5カ月があっという間に、本当に吹っ飛ぶように経った気がします。
住環境に求めるものは、人それぞれ、色々あるのでしょうが、私にとって毎日目にするものが自分にとって美しいと感じるものであってほしい、美しい景色の中にいたいという思いが、いつからか一つの基準としてありました。
今こうして振り返ってみると、改めてこんなに素晴らしい景色の中に暮らしていることがありがたく幸せだなぁと思います。
だんだんと畑の時期も終わりに近づいてきて、身体も心も少しスローダウン。これから少しずつ、空き家に住むことや畑のことなど書いていけたらなと思います。
移住者インタビューその15
徐 銓軼(じょ せんい)さん(36歳)
中国上海市生まれ、上海市育ち。日本の大学を卒業後、上海の福島県上海事務所に勤務していましたが、その後念願叶い再度日本へ。福島県国際交流員を5年勤め、2018年からは奥会津振興センターの地域おこし協力隊となる。情報発信や六次化商品の開発、移住定住・二地域居住の促進など多岐にわたる業務を担当しています。また、2020年3月より町内に空き家を借り住み始めました。
これまでを振り返って
日本での計15年を振り返ってみると、一つのストーリーとして一貫性があるなと感じています。大都市(大阪市)から地方都市(福島市)そして奥会津(三島町)へ。北へ北へ、また人口が少ない方へ少ない方へとだんだんとフォーカスが定まってきました。
もともと家系的に日本とつながりがあったことから、日本の文化に興味があり、関西の大学に留学しました。留学生活を通して、技術等大きく進歩している部分もありますが、生活リズムや人の温かさなどいい意味で日本は変わらない、日本の生活は自分には向いているなと感じました。大学では、高齢者福祉を学んでいましたが、当時は現地で学ぶ機会はほとんどなく、また日本での就職は叶わず、一度は上海へ戻りましたが、こうして三島町に住むようになり、高齢化や過疎化を目の当たりにし、10年以上遅れで、大学で学んだことを勉強しなおしている気がしています。そして、日本の大学生活は無駄ではなかった、全てはつながっているんだと感じています。
出会いなどは自分の意思では左右できない部分もあり、「たまたま」と言ってしまえばそれまでですが、その「たまたま」がここでは高確率で起きているように感じています。そして「たまたま」の積み重ねが自分をここまで導いてくれのだと思っています。
三島町での暮らしについて
奥会津(主に柳津町、三島町、金山町、昭和村、只見町の5町村)、さらには三島町とつながっていたいと思い、今年の3月より町内の空き家を借りることにしました。築80年ほどの古民家です。「三島町でどこが一番好きか?」と聞かれたら、「自宅!」と答えるくらい気に入っています。これまでは団地に住んでいたので、近所の方との関わりもほとんどありませんでしたが、ここを借りたことで、地域のみなさんとの交流が生まれ、それが何よりよかったことです。DIYでブランコやイスを作ったり、囲炉裏でバーベキューをしたり、裏で畑をしたりと、この夏は色々楽しみました。また、自分が草刈り機を使うなんて、想像もしていませんでしたが、暮らしに必要なことも学んでいます。生涯のプロジェクトととして、この家を整えていきたいと考えています。
協力隊としての業務には、移住定住促進も含まれていますが、自分の暮らし、ありのままの日常生活を様々な媒体でお見せしています。もし自分が奥会津でうまく暮らしていけるのなら、他の誰でもうまく暮らしていけるのではないかと考えています。そのためには、「自分でもここで楽しく暮せるよ」と身をもって証明するのが一番。テレビ番組含めメディア出演も好機ととらえ、快く引き受けています。自分が一つのツールとなって、三島町や奥会津、福島の魅力が伝わればと思います。
もう一つ、三島町に来てよかったと思っていることが、台湾とのつながりを持てたことです。ここには只見線や雪景色を見に多くの台湾人が訪れます。町内で道に迷っている人に声をかけたことで交流が生まれ、その後も関係が続いている人もおり、訪れたことのなかった台湾に、昨年は公私併せて7回も行きました。台湾と奥会津は180度違う暮らしですが、関わるうちに共通点が見えてくるようになりました。台湾の人々は只見線が一つのきっかけでこちらに来ますが、なぜ彼らが奥会津に惹かれるのかその理由も少しずつわかってきた気がします。
三島町は暮らしやすい場所です。面積は小さく、人口も少ないですが、地区ごとの特徴もあり、自分にとっては人との距離感もちょうどいいです。小さな子どもが二人おり、緊急時に病院へ行くことなども、ここだと対応できるなと考えています(総合病院まで車で35分ほど)。
いい思い出をたくさんいただける三島町。そして、どこかほっとけないと感じさせる町でもある三島町。これから、ますます町のために貢献していきたいと思っています。そして、ぜひ多くの方に四季折々の美しさを存分に楽しみ、日本で最も美しい町の生活を体験していただけるといいです。
徐さんに関する記事
徐さん関する記事はインターネット上で色々ご覧いただけます。以下いくつかご紹介します。
インタビューを終えて
インタビュー中、「感謝」という言葉をよく口にしていたのが印象的でしたが、与えられた機会にどう対応するかは人ぞれぞれ。徐さんの何事に対しても素直に前向きに向き合う姿勢が、徐さんの人生をより豊かで面白く、楽しいものへ導いてくださったんだろうなということを強く感じました。福島、奥会津、三島への愛にあふれ、自分がここにいる理由について意識的で、できることをやっていきたいと全力で取り組んでいる徐さんを、これからも心から応援したいと思っています。