移住者インタビューその14
小栗文夫さん(64歳)
福岡県出身。2007年から三島町へと通い始め、退職を機に2014年、千葉県市川市から三島町へ移住。
三島町へと移住したいきさつ
いつかは田舎で暮したいとずっと思っていましたが、2011年の震災がきっかけでますますその想いが強くなりました。元々は福岡県の出身ですが、中学生の頃から関東圏で暮しており、移住前は千葉県市川市に住んでいました。市川市は首都圏内でありながら緑も多く住みやすい町でしたが、様々なタイミングが重なり、「これは今しかない」と、三島町への移住を決めました。
三島町との最初の出会いは、2007年。「自然と共に生きる暮らし・技・心に学び、21 世紀の都市農村交流と新しい生き方を創る」をテーマに開催された「奥会津案内人」という講座でした。これまで奥会津に行ったことはなく、土地勘もありませんでしたが、コーディネーターの先生が面白く興味を持ったのと、「田舎暮らし」へのきっかけにもなればとも思い、参加しました。
最初に案内されたのが三島町の大谷地区にある地域の方のお宅でした。「ここには、町の水道水と山の水、2つの水源があるんだよ」といったお話を聞きながら、山の水で入れていただいたお茶を味わったのが記憶に残っています。また、以前から山の手入れに関する講習を受けていたのですが、「山の木、伐りたいなら伐っていいよ」と地域の方に杉の木を切らせていただいたのも、よく覚えています。次年度もこの講座に参加し、また個人的にも山の木を切らせてもらうなど、年に数回は三島町に通いました。
東京から東武鉄道を乗り継ぎながら鬼怒川から来ると、がらっと景色がかわります。冬はトンネルを抜けると突然の雪景色。冬は特に美しいなと思いました。群馬とは山一つ隔てただけですが、奥会津は風景、雰囲気、人柄が全然違い、何となく人も自然もいいなと思うようになりました。また、若い人たちのなかにも自然の中で暮したいと思う人がいることや、仲間で集り自分たちの得意なことをやろうとする動きがあったのも、すごくいいなと思ったものです。
2011年の震災で、都会での暮らしは何事もなければ便利で暮しやすいですが、何かあると脆いということを痛感しました。震災後、足繁く通った奥会津はどうなっているのだろうと気になり、訪ねてみたところ、「ここは地盤が安定しているから」と言って、みなさん普通にお暮しだったのに意外な思いがしたと同時に、三島町への移住を真剣に考えるようになりました。そこで、これまでもお世話になっていた地域の方にご相談し、空き家を紹介していただきました。親や親戚、友人がいるわけでもない自分がぽっと来て家を探すことはなかなかできません。暖かく面倒見のいい地域の方が間に入ってくださったおかげで、ありがたかったです。
移住した最初の年は、除雪作業に従事しました。冬にこんなに忙しい仕事があるのか、周りのみなさんも雪が降ると一層生き生きしているように映り、新鮮に感じたものです。雪に対しては、都会より強いのだなということを知りました。
自然エネルギーや暮らしについて
父親が電力会社で働いていたこともあって、幼い頃からダム見学をしたり、また一時期は九州の炭鉱町に住んでいたこともあり、電力やエネルギーといったテーマが身近で、ずっと関心がありました。
三島町へ通っている頃に、NPO法人会津みしま自然エネルギー研究会が発足し、移住してからは私も関わるようになりました。当時は町内にある河川で水力発電ができないかということで予備調査をしていました。結局実現はしませんでしたが、その後は地域の人や子どもたちに地熱や水力発電など地域資源を生かした自然エネルギーについて興味を持ってもらいたいと、発電所の施設見学やロケットストーブ作り体験会を開催するなど啓発活動を行っています。
石油を輸入するようになり、今は便利な生活になりましたが、昔は山の木があらゆるエネルギー源、生活資源でした。そういう生活の知恵などが失われつつあるのはもったいないな、今でも合理的だと思えるものは使っていきたいし、残していきたいなと個人的には思っています。山の木を切って燃料にする、薪ストーブのある暮らしは、人として真っ当な気がしており、いつかそういう暮らしがしたいと憧れていました。
昨年、その念願が叶い、薪ストーブを自宅に入れました。初めて使用してみて、ひと冬分の薪を確保するのは予想以上に大変だなということを実感しましたが、薪ストーブはあるだけでいいです。火を見ながら、薪を足したり、空気の調節をしたり、料理をしたり、ずっと近くにいて見ていられます。手間がかかるのは事実ですが、そのひと手間ふた手間を苦労と思わず、面白いな、楽しいなと思えるのであれば、ぜひやってみたらとお勧めしたいです。
* 福島県と当町には薪ストーブ設置補助金があり、町は上限15万円の補助が出ます。
インタビューを終えて
今回お話を伺いいながら、自然に沿ったシンプルな小栗さんのお考えにとてもいい刺激をいただきました。面倒や手間を省いた便利な生活からは、大切な何かが抜け落ちていくように感じながらも、日々の生活に流されつつあったので、自分が大切にしたいと思うこと、どんな暮らしがしたいのか等、今一度考えるきっかけをいただいたように思います。薪ストーブについては色々な意見がありますが、私自身もいつかストーブのある暮らしをしたいと思っているので、夢ふくらむ時間となりました。まず手始めに、近々ロケットストーブを作ってみたいと思います。
移住者インタビューその13
鈴木敦(つとむ)さん(40歳)
会津坂下町出身。会津桐タンス株式会社に勤めるのをきっかけに、三島町と関わりを持ち、5年前から町内に住んでいます。現在は、木工作品を制作・販売するかたわら、町のものづくり拠点である生活工芸館にて、編み組材料業務 (栽培・採取)のお仕事をされています。
三島町へと移住したいきさつ
いつも、かっこいいと思うこと、楽しいことや好きなことを追求してきました。
ものづくりに目覚めたのは親戚宅のリフォームを手伝い、大工として働くようになってからです。小中学校の頃は、図工や技術は大嫌いでした。自分が思うように作れずイライラするし、うまく作れる気がしませんでした。また、学校では授業でやらされている感が否めませんでしたが、仕事となると、そう言ってもいられず、やらなくてはいけません。そして、本気でやってみると面白いということに気づきました。自分で言うのもなんですが、「家を作れるなんてすごい」「かっこいい」と素直に思います。ここでの経験が、ものを作る=何かを生み出すというのは楽しいことなのだと知った最初のきっかけでした。5年ほど勤めたのち、諸事情により退社。その後は古着屋を経営したりしましたが、お店の看板や内装を自分でするなど、この頃にはすっかりものづくりにはまり、木工をやっていきたいという気持ちが強まっていました。
あるとき、道の駅みしま宿2階にある桐タンス展示スペースにふらっと立ち寄ったのが、三島町との出会いでした。展示されている桐タンスを見て、自分でも作れたらと思ったのですが、ちょうどそのとき、桐タンス株式会社で求人募集があったので、即応募しました。晴れて採用が決まり、ここで木工の細かい仕事を色々と学びました。
その後、絵の額縁作りを専門に独立しました。生活工芸館で木を加工し、工人の館(現在は工芸館とともに町のものづくり拠点)を工房として借り、組み立て作業などをしていました。本格的な機械を誰でも自由に使える生活工芸館は、木工をする人間にとっては素晴らしい場所です。工芸館がなかったら、三島町には来ていなかったと思います。
ただ、会津坂下町より三島町まで通うのは大変でした。作業は皆が寝静まった深夜がはかどるので、どうしても夜型になります。しかし、ここは雪国。夜中の2時近くまで作業していると、雪がどっさり積もり帰宅するのが容易ではないことも度々ありました。そんな生活を数年は続けていたのですが、町にちょうど世帯向けの住宅ができたこともあり、奥さんを何とか説得し、三島町へ移り住みました。ちょうど長女が小学校に上がるタイミングでした。
お仕事について
絵描きさんの額縁作りは、大工の頃から端材を使ってやっていました。絵を描く友人知人が周りにいて、頼られることが多く、自分は絵は描けないけれど、額縁くらいなら作れるかなと思い、始めました。オーダーはアマからプロまで、全てお任せすると言う人から細かい注文まで様々ですが、ニーズに応えながら作っています。適当にやっても材は合わさりますが、丁寧にいいもの作らないと面白くありません。すごく気合いを入れて作り、ビタッと合わさるときは最高に楽しいです。
また、三島町に住むタイミングで声をかけていただき、工芸館の木工指導員になりました。工芸館に勤めたことで、多くの方と出会い、知り合う機会に恵まれました。町内外、老若男女を問わず、そして素人からプロまで毎日色んな方があそびに来ていました。そういった方たちのサポートをしながら一緒にものづくりできるのは、何ほど面白いことでしょう。
そして、木工指導員と並行して町の特産である編み組の材料集めにも関わるようになりました。町の工人さん(ものづくりする人たちのこと)たちはだんだんと高齢になり、山へ材料を取りに行けなくなりつつあるので、代わりに取りに行きます。とりたてて山に興味があったわけではありませんが、これも始めて見ると面白く、山に目覚めてしまいました。大自然の中で、色んな野生動物と隣り合わせで作業するのは、怖いこともありますが楽しいです。
本業=木工作品作り、副業=山での材料取りと、今好きなこと、楽しいことしかしていません。つまらない仕事、嫌々ながらする仕事はしたくありません。もちろん仕事をする上での責任、そして子どももいるので親としての責任はあります。しかし、楽しい人生とのバランスは大切です。奥さんの協力もあり、今の暮らしに不満はありません。
これからのこと
三島町への移住については、当時多くの波紋を呼び、反対にも合いましたが、この春で丸5年が経過したことになります。色んな方に覚えていただき、お世話になり、三島に来て本当によかったと思っています。自分は「人が優しい」「温かい」といったことを言うのがあまり好きではありませんが、工人さんたち含め三島の人に何ほどよくしていただいたか計り知れません。
また、ここは「変わり者」が集まる町だと思っています。仕事を辞めて、生活が不安定なものづくりで食べていくなんて、なかなかできることではありません。みんな三島が好きで、面白い人たちで、一緒にいるのが楽しいです。
これからもここに暮らし続けたいと思っている人間にとって、未来に対する不安は確かにあります。人口減少は止まらず、子どもの生育環境としてどうなのだろうかという思いも正直あります。幸い3人の子どもは素直に伸び伸び育っていますが、もうすぐ6年生になる長女の同級生は3人なので、良くも悪くも少人数制。将来大勢の中でやっていけるのかなど考えることもあります。
この町に根を張って暮らしたいと思うからには、町がよりよくなってほしいですし、よりよい町にしていきたいとも思っています。地元の方々と、三島町が好きで来た移住者とが今後ますますつながれば、三島町の未来も広がっていくんじゃないかと思っています。
インタビューを終えて
好きなことにまっすぐで熱く、色々とご苦労などもあった/あるのかもしれませんが、そんなことを全く感じさせない圧倒的なパワーが鈴木さんにはあり、お話を聞いていると、こちらまで明るい気持ちになります。私自身鈴木さんが作成したカッティングボードを使わせていただいていますが、使い勝手がちょうどよく、洗練されたデザインでキッチンに置いてあると気持ちも上がります。身近にものづくりする人がいて、その方たちが作ったものを使えるのは幸せなことだなぁと改めて思います。
アクアマリンいなわしろカワセミ水族館
先日機会があって、猪苗代町にあるアクアマリンいなわしろカワセミ水族館へ行ってきました。この水族館では、カワウソ親子をはじめ大中小、そして極小の様々な水辺の生き物に会える、それはそれは丁寧に展示された水族館です。
ここに、町内業者でる佐久間建設工業森林事業部さんが床の工事した木育コーナー『森のこばこ』があります。
床一面フローリングで、入った瞬間にわぁと広がりと明るさを感じる空間です。
その中に、木のおもちゃが色々と置いてあります。下の写真二つは、佐久間建設森林事業部さんが提供しているとのことです。
このイラストは水族館スタッフの方の手描きとのこと。他にもスタッフの方お手製のおもちゃも多くあり、みなさんの暖かい想いと細かい作業は感動的です。
例年より少ないと聞きましたが、この日も多くの子どもたちの声がにぎやかに響いていて、とても楽しそうでした。広々とした空間で、木のぬくもりが心地よく、大人ものんびりできそうです。
そして、水族館も好奇心を刺激する内容盛りだくさんで、一日いても飽きることのない楽しい空間でした。
きのこの菌打ち
先日、なめことしいたけの菌打ち(こっちの人は、「きんぶち」と言います。原木の丸太にきのこの菌を植え付ける作業)を手伝わせていただきました。
昔、実家でも父親が原木しいたけを栽培していた記憶があったのですが、当時はきのこが好きではなかたので、全く見向きもしませんでしたが、原木きのこと聞いてわくわく参加。
まずは、原木にドリルで穴を開けます。しいたけにはコナラ、なめこにはサクラの木を使います。
菌のついた小指の先ほどの小枝をトンカチで原木の穴に打ち付けていきます。菌はほのかにそれぞれのきのこの香りがしていまました。
菌の付いたしいたけの原木はスギ林の中へ。なめこは霧が立つような湿っぽい場所が好きとのことで、沢沿いの山の中へ置いてきました。
ここらへんでは、昔はきのこ栽培は各家庭でやっていたようで、菌打ちは子どものお手伝いやお小遣い稼ぎだったようです。
収穫までに1年から1年半ほどかかるようですが、今から収穫が待ち遠しいです。
自分で食べ物を作ること。ここにはそういう暮らしがまだまだあり、このように体験させていたでけることがありがたい限りです。色々学べるうちに吸収しておきたいなと改めて思う時間でした。
移住者インタビューその12
三澤真也さん(40歳)
長野県諏訪市出身。2010年4月に生活工芸館の木工指導員として三島町に移住し、ちょうど10年が経ちました。2017年にオープンしたゲストハウスソコカシコのオーナーであり、現在は積極的に地域づくりにも取り組まれています。
三島町へと移住したいきさつ
武蔵野美術大学を卒業後、岐阜県高山市の森林たくみ塾というところで木工を2年学び、そこでのご縁で、生活工芸館の木工指導員の仕事を紹介していただきました。なぜ三島町に来たのかというと、何も知らない新しい場所もいいなという軽い気持ちと、下見に来た際に目に触れた「生活工芸憲章」に惹かれたからです。また、当時の齋藤茂樹町長が見学後、直々にお手紙をくださったのも心に残っています。
生活工芸憲章
一.家族や隣人が車座を組んで
二.身近な素材を用い
三.祖父の代から伝わる技術を活かし
四.生活の用から生まれるもの
五.偽りのない本当のもの
六.みんなの生活の中で使えるものを
七.山村に生きる喜びの表現として
八.真心を込めてつくり
九.それを実生活の中で活用し
十.自らの手で生活空間を構成する
* 生活工芸とは、農作業が休みとなる冬期間に、暮らしで使う道具を作る「ものづくり」のこと(詳しくは三島町観光地域づくり情報サイトへ)。
お仕事について
木工指導員を3年勤め、その後地元の方が運営するNPO法人わくわく奥会津.COMに勤め始め、2年目からちょうど福島県で始まった「森のはこ舟アートプロジェクト」に携わりました。このプロジェクトは福島県会津地方の北西部に位置する喜多方市、 西会津町、三島町を中心として始まったアートプロジェクトで、アートを通してこの地に残る森林文化などを再認識する活動でした。プロジェクト3年目に、町内外の方々とともにこのゲストハウスをリノベーションすることとなりました。地域の土や植物を混ぜ込んだ壁、蓑を漉き込んだ襖、町の伝統工芸品である編み組細工の照明などを取り入れました。そして、2017年6月の町の一大イベントである工人まつりの日にオープンしました。
ゲストハウスを初めて3年となりますが、まだ3年しか経っていないのか、もっと長くやっているような気がしています。ゲストハウスだけでなく、週末のバー営業などもしてきましたが、町内の人口も少なくなって来ていたり、観光客ももっと呼び込む余地があると思っているので、手応えとしてはまだまだこれからですが、やってみてわかったことは色々あります。料理を作るのは好きですし面白いですが、一人では手が回りきらない部分もあります。またこのゲストハウスだけではなく、町や奥会津地域全体の課題なども見えてきたので、昨年度より農泊事業などを通して、町内でお店をやっている人や行政の人たちと一緒に地域づくりに取り組めるのはありがたいことです。人口規模が大きい町や市では行政と一緒に何かすることは難しいと思うので、このように一緒に仕事ができるのは楽しいです。
山文化継承プロジェクト
ここでお店経営している人たちと話していて思うのは、この地域に人の流れを作り、人を呼び込まないと、どのお店も続けていくのは難しいだろうということです。昨年は現状を把握し、うまく回らない原因などを解きほぐし、どうしていったらいいのか方向性を探り、今後の計画を立てる一年でした。こういった取り組みはすぐに成果が見えるわけではありません。前例がないことも多いため、既存の仕組みを持ってくるわけにはいかないため、自分たちで一つ一つ考え、一歩一歩作り上げていかなくてはなりません。その中で、今ぼんやりと考えていること、温めていることの一つが山文化継承プロジェクトです。
今年の年明けに町内外から参加者を募り、「地域の仕事の作り方 奥会津編」という2泊3日の合宿イベントを三島町で実施しました。そこで様々な分野で活躍する地元の方々から話を聞く機会があり、このプロジェクトをやっていきたいという気持ちになりました。
時代による山のあり方を見ていくと、現金収入獲得の手段として変遷していったことがわかります。かつて、林業や炭焼き、狩猟がお金になり、また毛皮が売れる時代がありました。しかし、時代とともに毛皮が売れなくなり、また林業から建設業に移ると(安い輸入材が入るようになったため)、山がお金にならなくなり、手入れされずに荒れるようになりました。それが昭和30~40年くらいだったのでしょうか。そして現在建設業もかつてのような大きな公共事業は減り、今はメンテナンスの時代に入ったと聞きます。そのような流れで見ると、これからの山は「観光の時代」だとおっしゃる方がいます。また、猟師の中には、「例えば今降っている雪がどんな雪か、そういう山の見方を伝えていきたい」とおっしゃる方もいます。そういった「山の見方」を伝えていくことが、これからは山で現金収入を獲得する1つの手段になっていくのかもしれません。
また個人的に、狩猟免許を取ろうとしていましたが、なかなか取得できずにいました。なぜかと考えてみると、獣を獲っても肉を食べることができず(放射能の関係で出荷制限がかかっているため)、そのためお金にもなりません。ではなぜ獲るのかというところで、もちろん農作物等の鳥獣被害対策というのはあると思いますが、自分の中で鉄砲を撃つことに対して気乗りしない部分、釈然としない部分があったのだと思います。そういうことを踏まえると、山を観光という視点で捉えてみると活路が開けるのではないかと思います。
来年度、地元の猟師の方を先生とし、地元の若い世代の山関係者や山好きの人をサポートスタッフとして、2~3日くらいのツアーを企画し、一般参加者の方が山に入る経験ができるツアーができないか検討しています。この1年はトライアルですが、このツアーがビジネスとしてもきちんと成り立つような仕組みを作っていきたいと思っています。
地元の猟師の方、山を知っている方々から、山の見方、歩き方を教えてもらい、山の活かし方を次の世代に引き継いでいくこと。今現役バリバリで山に入っている猟師さんも、その年齢を考えると、彼らから色々教えてもらえる時間も限られています。今いる方々がいなくなってしまうと、彼らの山の見方は失われてしまいます。そう考えると、この10年が勝負になってくると思うので、腰を据えてやっていきたいです。
インタビューを終えて
ソコカシコはアートの世界を歩んできた三澤さんはじめリノベーションされた方々のセンスあふれる空間でありながら、居心地よく、おいしいご飯と飲み物がいただける素敵なお店です(現在、週末営業は予約制なので、気軽にあそびに行けないのが残念ですが…)。また、こちらに来たばかりの頃に、友人たちに出会うきっかけとなった場所なので、私自身にとっては特別な場所でもあります。「山の見方」のお話は、ここでの暮らしについて同じように感じる部分もあるので、今後どのように形になっていくのか、興味深く、楽しみであるのと同時に応援していきたいなと思います。
雪を求めて
3月に入ってもちらちら雪が降り、山が白くなることはありますが、もうすっかり春だなぁをは感じる日々。雪が圧倒的に少なく、冬らしさを感じきれなかったため、春を迎える気持ちの準備がいまいち整わず…最後にもう少し雪あそびをしたいと、三坂山へ行ってきました。
例年だと、この時期でも雪がどっさり残っているようですが、今回は山頂付近以外、かんじきをはかずに歩くことができました。
木々の根元はまあるく雪が解け始め、植物が目覚め、活動を始めていることを伝えてくれます。クマと思われる大きな足跡もあり、動物たちも活動を始めているよう(今年は暖冬だったため、クマは冬眠しなかったんじゃないかという話も聞きますが)。
陽当たりのいい斜面は雪もなく、山に春を告げるマンサクの花が咲いていたり、木々の新芽もすくすく育っていました。
雪を求めて山へ行ったけれど、太陽はぽかぽかと暖かく、山は春の気配でいっぱいで、やっぱりもう春なんだなぁを感じた一日でした。
山頂からは只見川沿いに三島町の各集落を見下ろすことができ、遠くには磐梯山もその雄姿を見せていました。
今回、三坂山を美坂高原から滝原登山口まで歩きましたが、高原にブナ林や雑木林、そして開けた山頂と景色の変化に富み、とても気持ちのいい山だなぁと改めて思いました。